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成就寺
千葉県木更津市にあり、木更津駅から歩いて5分ほどの所にある法華経の寺。
木更津甚句の功労者、芸者「若福」の墓や、その他にも中村一心斎のものと言われている墓などもある。
毎年2月8日には「針供養」が執り行われる。
針供養
日常裁縫にたずさわっている人々が、針仕事を休めて、一年間使った古い針を供養する共に、裁縫の上達を願うという古くからの年中行事の一つです。
妻として夫への愛、母として子供への愛、恋人への誠の愛、一針一針妻の、母の、恋人への愛を秘めた針という言葉で言われる裁縫、衣生活は女性にとって大事にしたい事の一つです。針供養はそうした女性の祈りです。
日頃お世話になった針に感謝
芸名「若福」本名小野きく
「ふるさと歴史さんぽ教室」より転載
日本全国に木更津の名を広めた粋な女 --- 若福の墓(本名小野キク)
「アァー 木更津照るともお江戸は曇れ-------」
というアノ有名な木更津甚句は、江戸時代 木更津生まれの芸人 木更津亭柳勢が作詞・作曲して江戸中の大喝采を得たのですが、その後すたれました。明治になり、南片町の料亭「松川」の女将、露崎地勢が抱え子のまつ子にこの唄の真髄を教えたのです。その後まつ子は花の東京へ出て「若福」と名乗り宴席で木更津甚句を唄いまくりました。美人で親切で気っぷがよく、天性の美声ときていましたから、唄は東京中に大流行し、お座敷も何処も引っぱりだこのスターとなり政財界のお偉方のアイドルになりました。特に平民宰相「原敬」には可愛がられ、この「原敬・若福」の御縁で木更津港の建設、鹿野山の指定公園認定など数々の地域への貢献がもたらされました。
木更津甚句はその後JOAK(現NHK)で銚子の大漁節と共に記念事業の時、若福の美声により放送され、一躍全国で有名になり三つ児に至るまで知らない者はない程、全国津々浦々まで唄われました。
木更津の名を日本全国に知らしめた功労者、そして郷土に尽くした「若福」こと本名「小野キク」さんは今静かにここに眠っています。 合掌
戒名 皎月院妙菊日賢信女
昭和二十八年九月十七日
俗名 小野きく 行年七十二才
正調 木更津甚句
ア~
1番
木更津照るともお江戸は曇れ
可愛い主さが
ヤッサイ モッサイ
ヤレコリャ ドッコイ
コリャコ~リャ 日に焼ける
( 囃 子 )
スタコリャ スタコリャ
スタコリャサ
サテ
木更津浜辺モ スタコリャ
ホイダヨ
ホイ ホ~イ ノ ホイ
ア~
2番
沖の洲崎に茶屋町たてて
上り下りの船を待つ
ア~
汐に濡れたる どんこは着ても
木更津船頭は 気で知れる
ア~
花のお江戸と 木更津船は
今が世盛り 花盛り
ア~
3番
狸可愛や 證誠寺の庭で
月に浮かれて 腹つづみ
--- 出展「成就寺史誌」 ---
剣豪 中村一心斎
世界一の長編小説中里介山作『大菩薩峠』の机竜之助の奉納試合の行司役は剣豪 中村一心斎であります。この中村一心斎の供養塔が成就寺山門前に建っております。
一心斎は天明二年(1782)肥前(現在の九州長崎、佐賀の一部)の嶋原藩松平主殿頭家臣中村八郎左衛門一直の次男として生まれ、後に江戸に出て剣道の諸流派を修めた。
文政元年(1818)6月10日、富士山浅間神社にこもって塩穀を断って百草を食し、剣道の極意の授かるよう祈祷をなすこと百日目の9月26日、悟道に入り(一説には霊夢を見て)一流を開き不二心流と号した。
江戸に出て八丁堀に道場を開き子弟を教育、不二心流を開くまでには十八流派を修めたと伝えられております。晩年には門人の家を回り、安政元年10月3日下総国埴生郡赤萩村 鵜沢覚右エ門宅で死亡。行年73歳でした。
同所善福寺に葬りましたが、のち門人多数が木更津成就寺に集まり、三日間剣道大会を開き再び一心斎の葬儀を行い、成就寺門前に墓石を建立し遺骨を分骨してこの墓に納めました。この供養塔は一心斎の門弟で八幡町に島屋道場を建て剣道の指導に当たっていた藍玉商「大河内島屋」一族の建碑であると伝えられております。この墓石を見ますと墓石の正面には南無妙法蓮華経 法界と刻まれてあります。その右側に満足山四十三世日涼(花押)と刻まれ左側には一心浄念曇龍居士中村一心斎為菩提 大河内氏、智徳院妙勇大姉 俗称芳為菩提 熱田氏と刻んであります。下の台座には四行にわたって、大河内幸左エ門、同孫左エ門、同総三郎、友野七エ門の四名が刻まれております。
この墓石は火災による火熱により損傷され刻んだ文字が読めなくなっておりますが、これは文久二年(1862)3月28日墓石のまわりの家屋が全焼したので、その火熱のためと伝えられております。
郷土史研究の大家高崎敏雄先生の説明によれば、富士城屋喜左衛門の家が火元にて夜八時頃出火、南町、八幡町、寺町残らず全焼。その他弁天町、本町、大明塚等の片側が焼失したと記録してあります。
この一心斎の墓石が何故に成就寺に建立されたか。筆者の考えでは墓石の台石に友野七エ門の名が刻まれておりますが、成就寺創立以来の重席檀家で、現在の地名は千葉県木更津市中里。現在の当主は友野常義氏であります。
智徳院妙勇大姉の下に大河内氏、熱田氏と刻まれておりますが、この熱田氏も檀家の重席にあったように思われます。
安政5年(1858)当山四十三世日涼上人の代に大地震、大風のため諸堂が大破したので是れを修理するための勧進帳に友野七左エ門金拾両、熱田氏は金壹両二分の大金を寄付しております。この友野七左エ門と熱田氏が一心斎と深い関係にあったため墓石を成就寺に建立し、前記善福寺から一心斎の遺骨を分骨したものと想像されるのであります。
--- 出展「成就寺史誌」 ---
この他にもいくつかの謂われなどがあります。
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